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【連載】早瀬利之の先人たちのゴルフ
作家・ゴルフ評論家 早瀬 利之
作家・ゴルフ評論家 早瀬 利之

はやせ・としゆき
昭和15年長崎県生。36年鹿児島大卒業。様々な雑誌記者のあと『アサヒゴルフ』編集長。退職後作家活動。『週刊文春』の他、『夕刊フジ』で「人間グリーン」を執筆。作品に『右手・戸田藤一郎伝』『遥かなるスコットランド』剣道関係では『気の剣・剣聖十段斎村五郎』。『石原莞爾・満州備忘ノート』『満州合衆国』『石原莞爾・マッカサーが一番恐れた日本人』『精国の杜の反省会』『偉人たちのゴルフ』など。

テークバックは右腰から ── 石井 茂

石井茂は川奈・富戸の生まれで3兄弟の真ん中である。戦後中国から復員した直後に乗り込んだトラックが転落し、左足を複雑骨折したため左足が1センチ短い。

戦後の川奈が米軍後に英、豪州軍に接収されたので再就職できず、戦前からあった熱海GSで米兵相手にレッスンして生活した。熱海GSは熱海駅裏の山裾に赤星四郎が設計した9ホールで米軍の第8軍専用のゴルフ場だった。中国の徐州から復員して間もなくレッスンプロの働き口を見付け米兵たちにラウンドレッスンしたのが縁で、1回2ドルのレッスン料でボールを買うことが出来た。戦後米兵にレッスンをしたのは石井茂が初めてである。

米兵下士官たちは気前が良く、「俺は明日朝鮮に行く。ゴルフは出来なくなるから、このクラブとボールをお前にやる」と、別れ際に石井にくれた。当時は高価なスポルディングだった。下士官たちはラウンド後チップをはずむので石井はリッチになった。しかし、彼が教えた下士官や将校たちは朝鮮戦争で次々と戦死する。

下士官の1人がスライスボールを打つ石井を気の毒に思って、「アメリカにもお前のようなボールを打つプロがいる」と慰めた。その時石井は「伊豆で交通事故に遭い、左足を骨折して1センチ短いからスライスボールになる」と事情を話すと、米兵は気の毒がって「悪いことを言ったな」とダースの高価なボールをくれた。

事故後の石井は大きなハンディを背負ったままスライスボールなりに飛ばす工夫をする。それが右腰からのテークバックの起動である。右腰から引き、その反動で全身をボールにぶつけると距離は戻った。石井の復活を早めたのはボールとクラブに恵まれたことにある。昭和29年の日本プロに初優勝する。

講話条約発効により、川奈が大倉家に返還されると石井はレッスンプロに呼び戻されていた。戦後の財界人や宮様にレッスンする機会も多くなる。そのうちに石井の提案で川奈の青少年をキャディに指名しプロの育成に取り組む。杉本英世、内田繁ら10人が採用され、ゴルフを指導した。彼らにも「右腰で引け!」とスイングのスタートを厳として教えた。彼が教えたプロは300人に及ぶ。

石井は、練習もプロテストもスパイクのない白い運動靴を履いていた。それは川奈スタイルと呼ばれた。その理由は足腰を強化するためであった。アップダウンのきつい川奈で滑るようでは「プロの資格なし」が彼の教訓だった。

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