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【連載】早瀬利之の先人たちのゴルフ
作家・ゴルフ評論家 早瀬 利之
作家・ゴルフ評論家 早瀬 利之

はやせ・としゆき
昭和15年長崎県生。36年鹿児島大卒業。様々な雑誌記者のあと『アサヒゴルフ』編集長。退職後作家活動。『週刊文春』の他、『夕刊フジ』で「人間グリーン」を執筆。作品に『右手・戸田藤一郎伝』『遥かなるスコットランド』剣道関係では『気の剣・剣聖十段斎村五郎』。『石原莞爾・満州備忘ノート』『満州合衆国』『石原莞爾・マッカサーが一番恐れた日本人』『精国の杜の反省会』『偉人たちのゴルフ』など。

試合中ボールを抱いて寝た──林由郎

青木功、ジャンボ尾崎の師匠として名高い林由郎は、大正11年1月千葉県我孫子の農家に生まれた。近くに我孫子GCが開場すると、コース管理人として働くようになった。

このコースは、東京GCの運営を巡って頭に血が上って退会した造船技官が、自分のゴルフ場として我孫子に土地を見付けて造ったもので、設計を友人で第1回日本オープン優勝者の赤星六郎に依頼したものだ。実際は、体の弱い六郎に代わって現場を仕切ったのは兄の四朗だった。

開場して間もなく、ここには川奈出身の山本増二郎プロがヘッドプロになった。林は山本に弟子入りする。初戦はプロに転向した昭和15年5月の日本オープン。79・81と大叩きして予選落ち。同年9月の日本プロでも81・81とこれまた大叩きして予選落ちした。翌年の日本オープンも予選落ち。いずれもバンカーショットで苦しめられた。彼は客が来る前に猛烈に苦手なバンカーの練習をして、ようやくピンに絡むようになったが昭和18年、徴兵されて入隊し、ゴルフから遠のいた。

ところが戦後、我孫子の実家で百姓をしたのが幸運だった。我孫子は米軍に接収されなかったので練習が出来た。彼は「苦手なバンカーさえ克服すれば何も怖いものはない」と、ブレードの薄いサンドウエッジを手に入れると、3日も4日も我孫子の深いアリソン式のバンカーに入って打ち込む。高い球、手前のピン、奥のピンとあらゆる状況を打ち分けるようになる。

試合中は3個しかない糸巻きボールを布団の中に入れて温めて寝た。それはまるで鶏が卵を抱いてヒナを孵す行為にも似ていて、決してプロ仲間には語らなかった。

関東のプロたちの試合は、林が師匠の山本に「我孫子にプロを集めてやりましょうよ。優勝者にはコメ一俵を僕の家から出しますから」と持ちかけたことから始まる。昭和23年、試合がやりたい関東プロ数名が我孫子に集まり、非公式の1日の試合を行う。優勝したのは小金井CCの国末繁で、白米が手に入らない時に優勝賞品コメ一俵を手に入れ、列車で帰路に着いた。

これがきっかけとなり翌年東京GCで戦後初の関東プロが開催され、林が初優勝。同じ年の9月、我孫子で戦後初の日本プロが開催され林が293で優勝した。

日本オープンも昭和25年に我孫子で復活した。林が島村祐正に逆転して初優勝した。それが何と奥のバンカーからの一発逆転だった。島村は林の見事なバンカーショットを見た瞬間、手が震え、パットを外して敗れた。

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