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【連載】早瀬利之の先人たちのゴルフ
作家・ゴルフ評論家 早瀬 利之
作家・ゴルフ評論家 早瀬 利之

はやせ・としゆき
昭和15年長崎県生。36年鹿児島大卒業。様々な雑誌記者のあと『アサヒゴルフ』編集長。退職後作家活動。『週刊文春』の他、『夕刊フジ』で「人間グリーン」を執筆。作品に『右手・戸田藤一郎伝』『遥かなるスコットランド』剣道関係では『気の剣・剣聖十段斎村五郎』。『石原莞爾・満州備忘ノート』『満州合衆国』『石原莞爾・マッカサーが一番恐れた日本人』『精国の杜の反省会』『偉人たちのゴルフ』など。

左手はハンドル、右手はアクセル ―― 戸田藤一郎

勝負の世界では良きライバルを持つ人は強くなる。それも戦う度に負かされるライバルである。イヤな奴というライバルがいることは、知らぬ間に自分を強くしている。ただ、本人が気付いていないだけである。

逆にライバルがいない、みんな仲良しグループの選手は不幸である。

その意味では、鬼と恐れられた戸田藤一郎ほど先輩プロに苦しめられた人はいない。彼は関西にあって宮本留吉、福井覚治といった世代よりも5,6年下である。だが試合となると先輩プロたちと戦うことになり、いつも厚い壁に押し潰された。

17歳でプロになって初出場したのが昭和7年大阪の茨木CCで行われた日本オープン選手権。アマ25名、プロ29名が参加。当時は宮本留吉の全盛時代。宮本は298ストロークで3度目の優勝。新人の戸田は321ストローク。宮本との差は23ストロークもあった。

宮本は後に日本オープンに6勝した。その宮本を始め、多くの先輩プロたちが戸田の前に立ち塞がる。負けず嫌いの戸田は所属コースの廣野GCで、夜中にローソクを立て、その灯りの下で打ち込んだ。

当時のプロは昼間にコースを回ることが禁じられていた。客が帰った夕暮れにしかラウンド出来ない。それでは足りず夜中に打ち込みをし、夜明けと共に前夜打ったボールをかき集め痕跡を消した。そんな努力の甲斐あって、関西オープンで宮本に勝ち優勝した。翌年の関西プロでも勝つ。

昭和10年には全国一のプロ選手権である日本プロで初優勝した。ついには13年の関西オープン、関西プロ、日本プロを三勝し、日本オープンは2位。惜しくも年間グランドスラムを逃す。だが翌年、4大公式戦に勝ち、日本人で初めての年間グランドスラマーになった。まだ戸田は25歳だった。「天下一になる。ぶち抜いてトップに立つ。」そう誓った。しかし、不運が訪れる。大東亜戦争で試合は中止になり、彼も召集され昭和22年南方より復員する。戦後は24年に復活した関西オープンに優勝した。戦前戦後を通して優勝したのは戸田一人である。

彼が廣野GCで磨いた技術は、昭和10年に6人の日本代表としてアメリカ遠征した時に身に付けたスイングにある。それは左手を強化し、右手で打つパンチショットである。戦後も同じスイングで戦い、昭和38年48歳の最年長で日本オープンに優勝した。強さの秘訣を問われた彼は「左手はハンドル、右手はアクセルや。それには左手を鍛えんとあかん。左手一本でボールを打って鍛えとるで」と不敵に笑って見せた。

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