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【連載】早瀬利之の先人たちのゴルフ
作家・ゴルフ評論家 早瀬 利之
作家・ゴルフ評論家 早瀬 利之

はやせ・としゆき
昭和15年長崎県生。36年鹿児島大卒業。様々な雑誌記者のあと『アサヒゴルフ』編集長。退職後作家活動。『週刊文春』の他、『夕刊フジ』で「人間グリーン」を執筆。作品に『右手・戸田藤一郎伝』『遥かなるスコットランド』剣道関係では『気の剣・剣聖十段斎村五郎』。『石原莞爾・満州備忘ノート』『満州合衆国』『石原莞爾・マッカサーが一番恐れた日本人』『精国の杜の反省会』『偉人たちのゴルフ』など。

10年掛けてドローボール開眼 ―― 陳 清波プロ

今の日本のプロには個性が無い。金太郎飴だ。しかしどれを見ても、アドレスからフィニッシュまでほとんど変わらず、遠くからは誰が立っているのか即断できない。昔のプロは、アドレスしている影を見ただけで分かった。チチ・ロドリゲス、パーマー、ニクラス、G・プレーヤー、サム・スリード、日本では林由郎、中村寅吉、佐藤精一、そして陳清波など各自スタイルがあった。

球筋を知っているギャラリーは先に落下地点を予測し、それから打たれたボールを追って楽しんだ。そこに職人肌の技術が光った。中でも、台湾出身の陳清波は、背丈、スタイル、ハンチング、スイングリズムまでベン・ホーガンだった。日本にベン・ホーガン理論、つまりアメリカのモダンゴルフを持ち込んだ先駆者だ。

陳清波は、昭和6年10月、9人兄弟の三男として台湾の淡水(タンシュエ)で生まれた。祖父の進財は日本軍が演習場にするまで淡水の丘に住んでいたが、土地を提供して淡水川近くの水田地帯に移った。淡水の練習場のあたりが住まいだった。少年の清波は終戦直後、淡水のゴルフ場でクラブ修理を手伝う。そのうちに日本人が残していったクラブで練習をする。淡水は海からの風が強い。100ヤード打つと戻されて30ヤード先に落ちる。彼の練習を見ていた日本人が、川奈での修業手続きを取り、間もなく来日して川奈で2年間研修する。

彼のゴルフを一変させたのは1956年のワールドカップ。蒋介石は、陳と呂良煥を台湾代表として出場させる。場所は英国ウェントワース。陳清波は初めて当時大スターだったベン・ホーガンの練習を見る。「人垣が出来、人の股の間から覗いた。流れるようなスイング、ターフを取って打ち込むアイアンショットを見たとき、背中に電流が走った。」

その日以来、陳はベン・ホーガンのすべてを真似る。グリップからトップでの切り返し、膝の送り、フィニッシュ、ボールの位置……すべてである。10年後にはスクエアグリップでドローボール開眼。アイアンでのダウンブローは上からヘッドが入り、スピンの多いドローボールが柔らかくグリーン上に着地する。

東京GCのプロに迎えられたときも、試合の無い日には1日中バンカーを練習した。ヘッドの入れ具合で距離を合わせる。「10年掛かった」と本人は語る。「あとは何の工夫も不要。上げて打つだけ。ケガも無い。10年掛けて自分のモノになれば何も怖くない」

6年連続出場のマスターズは毎回予選落ち無し。上達のコツは「1人のプロの教えを十分に理解し、自分のモノにする」とのこと。

【参考サイト】
陳 清波 | 日本プロゴルフ殿堂

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